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セガミのみことばタイム

毎日心に留まったみことばの分かち合いをしています。

ダビデとゴリアテは番狂わせでもなんでもない

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第一サムエル記17章49節:ダビデは袋の中にてを差し入れ、石を1つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。

50節;こうしてダビデは、石投げと1つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を撃ち殺してしまった。

 

この当時イスラエル王国の最大の敵はペリシテ人でした。クレタ島を故郷とする、航海に長けた民族です。彼らが進軍を始め、シェフェラの谷を通って、山脈に向かいました。

高地をその手に収め、ベツレヘムのところで王国を二分するつもりだったんです。

サウル王率いるイスラエル王国はこの動向を読み取り王は自軍を率いて山を下りエラの谷で、ペリシテ軍と対峙しました。イスラエル軍とペリシテ軍は何週間もにらみ合っていました双方とも攻撃もままなりません。

攻撃するには山を下り、谷を越えて相手側に登らなくてはならなくて敵に身をさらす事になります。

この状況を打開するため、ペリシテ側は最強の兵士を谷底へ送り込みました。

その兵士が呼びかけます

 

「今日こそ、イスラエルの陣をなぶってやる。ひとりをよこせ。ひとつ勝負をしよう」

 

これは古代の戦場の習わしである一騎打ちですね。

血みどろの決戦無しに争いを治める方法でした。

ペリシテ人が送り込んだのは屈強の巨人で2m以上あり青銅の鎧で全身を固め剣と大小の投槍を持ち、かなりヤバそうなやつです。

恐怖のあまり、イスラエル側で これに応じる者はいませんでした。

自殺しにいくようなものです。勝ち目はありません。

 

しかし とうとう、進み出た者がいました

それが若い羊飼いの少年ダビデです。

そしてサウル王に「あのペリシテ人と戦いましょう」と申し出ました。

サウル王は33節「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」

と答えました。誰がどう見ても勝ち目は無いですね。

しかしダビデは34 節「ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。」と主張します。

ダビデの言っていることは誰が聴いても荒唐無稽だったと思います。

しかし他に誰も名乗り出ないので、サウルに選択の余地はありませんでした。

そしてサウルはダビデに一騎打ちの許可をしました。

サウルはダビデに自分の着ていたよろいかぶとを着させ、頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせました。

ダビデは思い切って歩いてみましたが、甲冑は重すぎてダビデには邪魔でした。

そしてサウルに「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。」と言ってダビデはそれを脱ぎ、自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にしました。

 

ダビデダビデの戦いの方法があったんですね。

サウルは良かれと思って戦場においての当然の方法にならってダビデに甲冑と剣を与えたんです。

しかしダビデは別に甲冑を着て戦うつもりはなかったんですね。

しかしサウルは良かれと思って与えてくれたんでとりあえず着てみました。

でもやっぱり違うのでサウルに断りました。

NOと言えない日本人的なダビデだと、サウルに貰った甲冑と剣をもらって、

「あ、すいませんありがとうございます。いやぁこの甲冑動きやすいですねぇ。これやったらゴリアテに勝てそうですわ」とか言って、めっちゃ重くて動きずらいのに無理してゴリアテに向かっていって瞬殺されていたかもしれません。

NOと言うのは不従順ではありません。

人には自分の賜物は分からないし、自分に合ったやり方は分かりません。

だから自分のやりやすい方法というのを伝える必要もあります。

ゴリアテの元へ山を下り始めました。コリアテはその姿を見て

「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」

ダビデを愚弄しました。

ダビデは袋から、一つの石を取り石投げに入れると振り回して放ちました。

石は巨人の眉間を打ち、ゴリアテは一発で倒れました。

少年は駆け寄るとその剣を取り。首をはねました

そしてそれを見たペリシテ軍は一目散に逃げ出しました。

このダビデゴリアテの戦いはダビデに勝ち目は一見なさそうですよね。

 

実際 「ダビデゴリアテ」と言えば、番狂わせの形容として使われています。

予想外の勝利ということですね。

しかし、なぜ ダビデに勝ち目はないと思ったのでしょうか?

子供だから 勝算はない。華奢な少年と巨人のゴリアテです。

しかもゴリアテは経験豊かな戦士でダビデはただの羊飼いです。

注目すべきはゴリアテが身に着けていたのが当時の最新鋭の武器だったことです。

きらめく甲冑、剣に 大小の投げやり

一方 ダビデが持っていたのはただの石投げに過ぎません。

ダビデが持っていたのは、石投げにすぎない」

しかし勝算はこの石投げです。

古代の戦場には3種類の兵隊がいました

まず騎兵。馬と二輪戦車に乗って戦います。

次に歩兵。これは剣と盾で身を固め、ある種の鎧を着た徒歩の兵隊です。

そして砲兵 弓の射手や、投石手などで編成されます。

投石手というのは革製のポーチを持っていてこのポーチは2本の長い紐付で

弾にする石や鉛玉をこのポーチに入れ こんな風に回転させて一方の紐を放す事で

標的に向けて投擲するんです。これがダビデの武器でした。

石投げはパチンコとは違うんですね。子供のおもちゃではありません。

非常に強力な武器なんです。

ダビデが石投げをこのように回している時おそらく1秒間に6、7回転させていたと思います。そして石が放たれるとものすごく高速になり恐らく秒速35mはあったと思われます。

プロ野球選手のピッチャーが投げる野球のボールよりも速いです。

しかもこのエラの谷にある石はただの石ではありません。

硫酸バリウムといって普通の石の2倍の密度があります。

計算してみるとダビデの石投げから放たれた石のパワーは

45口径の拳銃に匹敵するんです。

とてつもない威力のある武器なんです。

その精度は 歴史上の記録から経験豊かな投石手なら200m離れた敵に 重傷を負わせ

殺すことさえできたそうです。

中世のタペストリーから投石手は飛んでいる鳥を落とせる事もわかります。

驚くほど正確なのです。ダビデゴリアテと対峙した時200mも離れてはいません。

ずっと近かったゴリアテに向けて投げたときダビデはまさにゴリアテの弱点である眉間に狙いを定めていたのです。歴史上の戦いを振り返ると度々起きている事ですが

様々な局面で投石手が歩兵を圧倒しているのです

戦国時代の長篠の戦いでは武田信玄の当時最強と謳われた騎馬軍団を鉄砲で圧倒しています。今となっては戦争で接近戦なんて普通しません。

全ての兵士が投石手といっていいです。

さて ゴリアテはどうでしょうか? 重装歩兵です

当然 一騎打ちの際は、重装歩兵どうしで戦うつもりでした。

これから始まるのは、こんな剣を交えた接近戦です。

サウル王も同じ考えでした。

ダビデが「ゴリアテと戦いたい」と言った時、王は自分の鎧を与えようとしました

ゴリアテと戦う」というなら当然 それは「接近戦」で

「歩兵 対 歩兵の戦い」だろうと思ったんですね。

ところがダビデは そんなことは考えもしませんでした。

そんな戦い方はしません。なぜかというと羊飼いだからです。

一番の仕事は羊の群れを獅子やオオカミから石投げで守ることでした。

それが彼の強みです。

この羊飼いは使い慣れた強力な武器を手に巨人に向かったのです。

50kgの鎧で動きが遅くゴリアテの重たい武器は白兵戦でのみ有効です。

つまり、ゴリアテこそ格好の餌食で勝ち目はなかったんです。

それなのになぜ ダビデは勝てないと思い込み、番狂わせだと言うのは固定観念なんですね。

見かけに騙されやすい人間故の誤算です。

そしてダビデは羊飼いならではの投石でゴリアテを打ち負かしました。

神様は全てを益としてくださいます。羊飼いとしてのダビデを益と変えてくださり、用いてくださったんです。

ローマ人への手紙8章28節

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神が全てのことを働かせて益としてくださることを私達は知っています。

僕達が生きてきた過去のことを益と変えてくれるのが神様です。

僕は昔ネット依存で、中学の時にチャットばかりやっていたせいでキーボードを打つのがとても速くなりました。

しかし今はそれが益となっています。

生駒聖書学院に入ってからレポートやメッセージや証を書く機会が一段と多くなって、いつもワードを開いてパチパチやってるんですね。

それに自分は書くことが賜物だという確信があるので、そのために日々書き物をしています。その全てはパソコンで作業をするので、速くキーボードを打てることによって、自分の主から与えられた思いや考えを文字によって全部表現することが出来ます。

僕は言葉で説明しようとするととても口下手でダメなんでけど文章で説明するととても理論だって、言いたかったことが言えるのでタイピングが速く出来るというのは、これからの信仰生活でも福音を伝えていくためにもかなり役に立つことになります。

それに生駒聖書学院の3年間の中で、一人耳の聞こえない生徒がいるんですけど、その生徒のために授業中の先生の講義内容を全てほぼ完コピで打つことが出来て、彼が健常者と同じように授業が受けることが出来る手伝いが出来たのがとても感謝しています。

 

ダビデゴリアテの戦いはダビデが奇跡的に勝ったというよりも、ダビデが勝って当然の戦いだったと言っても過言ではありません。敵の見かけに騙されてはいけません。

僕達にとってのサタンとの戦いも、ダビデゴリアテの戦いと同じことですね。

大きく強く見せようとしますがその実態は偽りであり見せかけだけです。

大きく見える問題もその実、大したことがないものばかりです。

それに惑わされて臆病になり、負けると思ってはいけません。

僕達には万物を造られた万軍の主が味方しているんです。

僕たちはイエス様を信じる信仰によって、イエス様の十字架によってすでに勝利しているんです。例え負けているように見えても最後には勝利するんです。

そのことを覚えていないといけません。

見せかけだけのサタンと、目には見えないけど圧倒的な強さを誇る神様の前では勝利は見えてるし、すでに勝利してるんです。

尻尾まいて逃げてはいけません。逃げるのなら負けです。

勝利というのは戦ってこそ勝利するんです。立ち向かわないといけません。

ダビデのように僕たちにもあるいは自分の方法というのがあり、それが第一コリントの10章13節にも書かれている試練ととも脱出の道も備えてくださっているという方法かもしれません。

固定観念に囚われてはいけません。神様が与えてくださった個性を最大限に用いましょう。あなたは唯一無二のスペシャルな存在なのだから。

第二テモテ1章7節:神が私達に与えてくださったものは臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

ダビデは主がともにいてくださるという自信がありました。

それを何よりも信じていたからこそ圧倒的な勝利を迎えることが出来たんです。

栄光から栄光へ、勝利から勝利へと変えられていく信仰の道を歩むのに大切なのは神様を信じるという信仰のみです。

聖書には7000の約束のみことばがあるそうです。

僕達がその約束のみことばを信じるなら約束は成就されるんです。

神様が与えてくださった自分の賜物、良いもの、今までのことを益と変えてくださるということを信じましょう。

クリスチャンには決して忘れてはいけないことがあります。

それは僕達はすでにイエスキリストの十字架を信じる信仰によって勝利者だということです。

 

 

 

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