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セガミのみことばタイム

毎日心に留まったみことばの分かち合いをしています。

愛こそ全て

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愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

ローマ人への手紙13章10節

聖書にはたくさんの戒め(教え)があります。

しかし2000年前、イエスキリストはその律法を完成させ、また成就させました。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいています。

とイエス様は言われました。

つまり、愛こそ全てだということです。

他のみことばには愛が無ければなんの意味もないと書かれているほどです。

何の意味も無いのです。つまるところ、この世で最も大切で、ただ一つ必要なことは「愛」だということです。

2000年前の当時の厳格な律法学者は律法はこれでもかというほど守っていましたが、そこに愛がありませんでした。それは表面上の形だけであって、間違った動機だったのです。間違った動機で律法を行うと、そこには欲が孕みます。

例えば、自分があたかも神様に仕えている立派な人だと見せるために立派な服を着たりして、町中で人に見せるかのごとく長く格好良い祈りをしたり、人を裁き、私利私欲のためにお金を稼ぎます。

しかし、表面上だけは律法を守っているかのように見せかけているのです。

彼らの内側にはあらゆる欲で満ち溢れていました。

イエス様はそんな彼らを「偽善者だ」と激しく非難しました。

イエス様はあるたとえ話をされました。

 

ルカ 18:9~14
18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

もし律法を守っていたとしても表面上だけならば、パリサイ人のような高慢な祈りになります。

また、パリサイ人は自分が罪を犯していないと思っていたのです。

それは律法を厳格に守っていたから、自分が神の前で立派な人だと勘違いをしていたのです。自分の表面だけしか見えてないから自分の心の中の罪に気づいていなかったのです。

ある聖書の箇所には「義人はいない。一人もいない」と書かれています。

アダムとエバの祖先である私たちには罪の遺伝子が刻まれています。

毎日罪を犯しているのです。

取税人の彼は自分の罪を自覚していました。自分が神の御前でとんでもない罪人だということを自覚していたのです。

しかしその罪の罪責感と神様を愛しているが故、遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』と祈ったのです。

神様はその祈りを義と認めました。

この罪の自覚と悔い改めの心こそが愛の動機なのです。

「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでした。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。
(ローマの信徒への手紙)

律法は自分の罪を自覚させるためにあるといっても過言ではありません。

律法はキリストへと導くための養育係です。

罪が増したところに、恵みがいっそう満ち溢れたのはなぜでしょう?

それは律法をどうしても守れない自分に気付いた時、自分の罪深さを自覚し、そしてイエス様はそんな自分の罪のために、その罪を天のお父様に赦してもらい、天国に行けるようになるために十字架に掛かってくださったことが分かるからです。

「これほどの罪を赦して貰ったのか」と分かれば分かるほど、イエスキリストの十字架の愛の大きさがわかります。

罪が増し加わるところに恵みもまた増し加わる

というみことばがあります。それは自分の罪に気付けば気付くほど、十字架の恵みが分かるということです。

イエス様は十字架の上で律法を完成させたのです。

イエス様の十字架を信じる者は値無しに義と認められるのです。

神様の愛が分かればわかるほど、自分の心の中にその愛が満ち溢れ、そしてその愛を人に流していくことが出来ます。

愛とは人を裁くものではありません。叱責も必要なこともありますが、人を裁くとは自分を正義だとし、相手の人格そのものを否定していることにつながります。

そして、人を裁いていることに気付きません。

夜回り先生として有名な水谷先生はこう言いました。

「子供に接するのに電話もメールも言葉も要らない、ほめてあげて、ひたすら抱きしめてやればいい。」

 

「どうしてそんなことをするんだ!」「そんなことはやめなさい!」

などといって声を荒げて怒るところには裁き心が入り、また人格を否定していることがないでしょうか。

愛とは相手を肯定してあげることです。

ムーミンに出てくるミィはこう言いました。

「正論過ぎる正論は嫌いよ」

正論がいつも正しいというわけではありません。何故ならそこに愛が無い場合が多いからです。

イエスキリストの十字架は果たして、「正論」という観点からみると正しいことでしょうか?悪人のために無実の人が身代わりになるのは正論と思えますか?

いいえ、理不尽です。正論ならば、悪人は自分の罪のために罰を受けるべきです。

しかし、イエス様はあなたを愛しているが故、滅んで欲しくないが故に、何の罪もない、神様であるイエス様があなたのために十字架に掛かってくださったのです。

それは理不尽過ぎる愛です。狂気じみた愛です。そこにはなんの計算もありません。

ただ、愛のみがあるのです。

 

今日一日もイエス様の十字架を思い出して、その愛に触れられて、その愛を流していこうではありませんか。

 

 

 

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