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セガミのみことばタイム

毎日心に留まったみことばの分かち合いをしています。

街角の売春婦

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街角には馴染みの売春婦が立っている

昨日から降り続ける雨は彼女の傘と彼女の裾を濡らす

彼女には雨が降り注いでいるが

雨は一人だけに降り注いでいるわけではない

それはまるで罪が一人だけに降り注ぐわけではないかのように

スタンダードなモラル スタンダードなマナー

スタンダードな義理 スタンダードな愛

利己的なモラル 利己的なマナー

利己的な義理 利己的な愛

従来私たちは利己的に人を好きになり

従来私たちは利己的に人を嫌いになる

嫌いなるとその存在は悪になり

好きになるとその存在は善になる

街角の売春婦の心を知る人はいない

罪を自覚し悔い改める売春婦と

正しさを自負しながら売春婦を嘲り見下す行き交う人々

主観に過ぎない善と悪がこの世界を蹂躙する

他人にならない限り不可能の客観はこの自分自身には存在しない

人類は自分を無条件に愛してくれている方を十字架に架けたのだ

だが彼はそれだけでは終わらなかった

愛してやまない者のため、三日後に蘇られた

街角の売春婦は赦された

彼女はそれを知り、信じたのだから

彼女は変わろうと思った。

無条件に愛されていることを知ったから。

 

 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義ときよめと、贖いとになられました。

まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。

第一コリント1章27節~31節

 

 

 

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十字架の癒し

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僕たちは生きていく上で様々な傷を負っています。

毎日毎日、心に傷を負っていっています。

そして、同時に人に傷を与えています。

傷を受け、傷を与え、些細な言葉の一つでその人はトラウマを抱えてしまったこともあるかもしれません。

些細な言葉の一つであなたがトラウマを抱えてしまったこともあるかもしれません。

いや、きっとあるでしょう。

そうして僕たちのセルフイメージは低くなっていきます。

傷つかない術を身に着けていく結果、自分に嘘をつき、誤魔化して生きているかもしれません。

本音と建て前を上手に使いこなし、人によって態度を変え、狡猾さを身に付けていきます。

それは適者生存、弱肉強食のこの世界、この社会で生きていくうえでそうしなければならなかったのかもしれません。

しかし、本来の自分をかけ離れていくと、色々な悩みや葛藤が出てきます。

自分が受けた傷によって、他人にもその傷を与えてしまうこともあります。

本来の自分を取り戻すと、そこにはセルフイメージの回復と、本当の意味での人との付き合い。本当の意味で人を愛して生きていけるようになります。

イエスキリストの十字架には心を傷を癒す奇跡があります。

 

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に背負われました。
それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。
キリストのうち傷のゆえにあなたがたは癒されたのです」(1ペテロ2:24)

 

 


賛美 御腕に抱いて

 

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この世の勝利者とは誰なのか?

世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。第一ヨハネ5章5節

世に勝つとはどういう意味でしょうか?この世で成功すること?

地位よ名誉と富を得ること?みんなから尊敬されること?

例えそんな立派な人であっても、イエスを神の御子と信じないのであれば、世に負けています。

何故ならみんないつかは死ぬからです。

キューブリックとのバリーリンドンという映画で「偉大な人物もろくでもない人物も今はみんな一緒。墓の中」という言葉が出てきます。

いくら一時、巨万の富を築こうが、偉大な人物であろうが、みんな最後は死ぬんです。

死ぬとは負けることを意味するのではないでしょうか。死んだら終わりなんだから。

いつかは忘れ去られるんだから。何もできなくなるんだから。

僕たちは産まれた時から負けることが決定しています。死の道を刻一刻とたどっています。

しかし、イエスを神の御子と信じ、自分の罪のために十字架に掛かってくださったことを信じるなら、その人はこの地上でどれだけ哀れな人生を過ごそうと世に打ち勝ったことになります。

何故なら肉体が滅びた後に永遠の命を持つことが出来るから。

この世の全ては滅びさるとイエスキリストは2000年前言われました。

これは19~20世紀に発見された熱力学第二法則と全く同じです。

この世の全ては滅びます。宇宙へいずれ完全に冷え切って熱的死を迎えます。

これがわかったのはつい100年前のことです。

しかしイエスキリストは2000年前にそのことを知っていました。

信仰とは目に見えないものを信じること。これに尽きます。

草は枯れ、花は萎む。しかし、神の言葉は永遠に立つ。

目に見えるいずれ滅び去る物質を信じますか?

永遠に滅びないといわれる神の言葉を信じますか?

この世界にイエスキリストの十字架の愛より大きいものはありません。

無実の神様であるイエスキリストが僕たちの罪の身代わりとなってくださったんです。

正しいもののために自己犠牲となって死ぬ人はいるでしょう。

しかし、イエスキリストは罪人の僕たちの身代わりとなったのです。

何故ですか?それはあなたを愛しているからです。

あなたが天国に行ってほしいだけです。他にどんな利己的な理由も存在しません。

まさに無条件の愛であり、罪人は自分の罪のために刑を受けて死ぬのが正論でしょう。

しかし、イエス様は愛しているが故にそれを望みませんでした。

それは正論とは言えないでしょう。無実の方が、自分を苦しめた人の身代わりとなって死ぬでしょうか?正論ではありません。それは愛です。

それも、理不尽過ぎるほどの愛です。

宗教は善行によって天国に行こうとします。

しかし、義人はいない。一人もいないとみことばに書いてあるように、70億人いれば70億人が罪人なのです。

いくら良いことをしても、自分の罪が消えるわけではありません。

イエス様が自分の罪たのための身代わりとなったことを悔い改めることによって、値無しに天のお父様に義と認められ、全ての罪が消え、天国にいけるのです。

それは行いではなく「信じる信仰のみ」なのです。

天国行きのパスポートは神様からのプレゼントです。

受け取るか受け取らないか、信じるか信じないかあ本人次第なのです。

神様は人間に自由意志を与えているのです。

考えてみてください。この世で最も大きな愛の行動をとったのは誰ですか?

最もあなたを愛している方はどなたですか?

 

僕は弱肉強食の世界よ無条件の愛を信じます。

 

 

 


死を打ち破り

 

 

 

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証1

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聖書で出てく世界一の金持ちはこう言いました栄華を極めたソロモンは

「空の空。全てが「空」

手に入れてきた物は空っぽだったんです。

その手にあると確かにありましたが、確かにそれはむなしいものでした。

飽きたら見向きもしないし、潜在意識の中で「いつか無くなる」という多いがあるからかもしれません。そしていくら手に入れても、いくら欲に溺れてみても、心の中は空っぽで何も得ることが出来ていないことが分かります。

夜は孤独感と虚しさが増す一方です。

欲がは孕むと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

草は枯れ、花はしぼみます。しかし神のことば永遠に立ちます。

だから聖書のことばには虚しさや孤独感というのがありません。

神様を感じることが出来ます。そのとてつもない愛を。

そして、この世で祝福されて生きていくための指南書でもあります。

また、この世で肉体が朽ち果てた後の唯一の救いの方法が書かれています。

この世で生まれたのはイエスキリストの十字架を信じる以外は取るに足らないものです。元悪魔崇拝無神論者だった僕がいうんだから必ずdす。

悪魔崇拝者で無神論者の僕がなぜクリスチャンになったかということを、次回お話ししましょう。

 

 

 

 

 

 

 

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何をするために生まれてきた?

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尽きることのない

 

 

 

 

 

 

 

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賛美!!!!!

賛美 というのは素晴らしいものです。

心から賛美をするなら、それは祈りでもあり、信仰告白でもあります。

賛美によって心が満たされ、神様の臨在が満ち溢れます。

たとえ、賛美ができない苦しい状況であったとしても、一生懸命心からするならば、主はその賛美を喜んでくださり、その人の心をご存じであります。

いかに主に信頼しているか。いかに主に助けを求めているのか。

僕は賛美で引き語りをするのが好きです。

良ければご視聴ください。

 

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愛こそ全て

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愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

ローマ人への手紙13章10節

聖書にはたくさんの戒め(教え)があります。

しかし2000年前、イエスキリストはその律法を完成させ、また成就させました。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいています。

とイエス様は言われました。

つまり、愛こそ全てだということです。

他のみことばには愛が無ければなんの意味もないと書かれているほどです。

何の意味も無いのです。つまるところ、この世で最も大切で、ただ一つ必要なことは「愛」だということです。

2000年前の当時の厳格な律法学者は律法はこれでもかというほど守っていましたが、そこに愛がありませんでした。それは表面上の形だけであって、間違った動機だったのです。間違った動機で律法を行うと、そこには欲が孕みます。

例えば、自分があたかも神様に仕えている立派な人だと見せるために立派な服を着たりして、町中で人に見せるかのごとく長く格好良い祈りをしたり、人を裁き、私利私欲のためにお金を稼ぎます。

しかし、表面上だけは律法を守っているかのように見せかけているのです。

彼らの内側にはあらゆる欲で満ち溢れていました。

イエス様はそんな彼らを「偽善者だ」と激しく非難しました。

イエス様はあるたとえ話をされました。

 

ルカ 18:9~14
18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

もし律法を守っていたとしても表面上だけならば、パリサイ人のような高慢な祈りになります。

また、パリサイ人は自分が罪を犯していないと思っていたのです。

それは律法を厳格に守っていたから、自分が神の前で立派な人だと勘違いをしていたのです。自分の表面だけしか見えてないから自分の心の中の罪に気づいていなかったのです。

ある聖書の箇所には「義人はいない。一人もいない」と書かれています。

アダムとエバの祖先である私たちには罪の遺伝子が刻まれています。

毎日罪を犯しているのです。

取税人の彼は自分の罪を自覚していました。自分が神の御前でとんでもない罪人だということを自覚していたのです。

しかしその罪の罪責感と神様を愛しているが故、遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』と祈ったのです。

神様はその祈りを義と認めました。

この罪の自覚と悔い改めの心こそが愛の動機なのです。

「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでした。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。
(ローマの信徒への手紙)

律法は自分の罪を自覚させるためにあるといっても過言ではありません。

律法はキリストへと導くための養育係です。

罪が増したところに、恵みがいっそう満ち溢れたのはなぜでしょう?

それは律法をどうしても守れない自分に気付いた時、自分の罪深さを自覚し、そしてイエス様はそんな自分の罪のために、その罪を天のお父様に赦してもらい、天国に行けるようになるために十字架に掛かってくださったことが分かるからです。

「これほどの罪を赦して貰ったのか」と分かれば分かるほど、イエスキリストの十字架の愛の大きさがわかります。

罪が増し加わるところに恵みもまた増し加わる

というみことばがあります。それは自分の罪に気付けば気付くほど、十字架の恵みが分かるということです。

イエス様は十字架の上で律法を完成させたのです。

イエス様の十字架を信じる者は値無しに義と認められるのです。

神様の愛が分かればわかるほど、自分の心の中にその愛が満ち溢れ、そしてその愛を人に流していくことが出来ます。

愛とは人を裁くものではありません。叱責も必要なこともありますが、人を裁くとは自分を正義だとし、相手の人格そのものを否定していることにつながります。

そして、人を裁いていることに気付きません。

夜回り先生として有名な水谷先生はこう言いました。

「子供に接するのに電話もメールも言葉も要らない、ほめてあげて、ひたすら抱きしめてやればいい。」

 

「どうしてそんなことをするんだ!」「そんなことはやめなさい!」

などといって声を荒げて怒るところには裁き心が入り、また人格を否定していることがないでしょうか。

愛とは相手を肯定してあげることです。

ムーミンに出てくるミィはこう言いました。

「正論過ぎる正論は嫌いよ」

正論がいつも正しいというわけではありません。何故ならそこに愛が無い場合が多いからです。

イエスキリストの十字架は果たして、「正論」という観点からみると正しいことでしょうか?悪人のために無実の人が身代わりになるのは正論と思えますか?

いいえ、理不尽です。正論ならば、悪人は自分の罪のために罰を受けるべきです。

しかし、イエス様はあなたを愛しているが故、滅んで欲しくないが故に、何の罪もない、神様であるイエス様があなたのために十字架に掛かってくださったのです。

それは理不尽過ぎる愛です。狂気じみた愛です。そこにはなんの計算もありません。

ただ、愛のみがあるのです。

 

今日一日もイエス様の十字架を思い出して、その愛に触れられて、その愛を流していこうではありませんか。

 

 

 

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